高野山 総本山金剛峯寺の見どころ完全ガイド
総本山金剛峯寺は高野山にある高野山真言宗の総本山の寺院です。明治以前は高野山全域を金剛峯寺と呼んでいましたが、明治2年に青厳寺と興山寺を合併し、総本山金剛峯寺という一つの寺院の名称となりました。青厳寺は豊臣秀吉が母である大政所の菩提を弔うために建立された寺院です。高野山のほぼ中央に位置し、金剛峯寺の座主(住職)の住まいでもあります。
なお高野山全体に関する解説記事については「高野山 (和歌山県) の見どころとアクセス方法」を参照されてください。
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正門
駐車場から主殿へ入るときに利用するのが正門(表門)です。正門は1862年に再建されたもので、当時は正門を利用できるのは天皇や皇族、高野山の重職など一部の方に限られており、僧侶は正門の右側にあるくぐり戸を利用されていたそうです。現在は参拝者の方も正門を通ることができます。
正門の右側にくぐり戸があるのが分かります。
正門とは別に、主殿の小玄関の近くに会下門(えかもん)があります。
鐘楼と経蔵
正門を入って右側に見えるのが鐘楼(しょうろう)です。この鐘楼は、金剛峯寺の元となっている青巌寺(せいがんじ)で使われていた鐘楼で、1864年に再建されたものです。
正門を入って左側に見えるのが経蔵(きょうぞう)です。1679年に寄進されたもので、金剛峯寺に現存する建物の中では二番目に古い建造物です。
主殿
正門の先に見えるのが主殿(しゅでん)です。東西60m、南北70mの広々とした建物です。火災などによって焼失した後、再建が行われており、現在の建物は1863年に再建されたものです。主殿には大玄関と小玄関があり、大玄関は天皇・皇族や高野山の重職だけが出入りに使用されていたそうです。
天水桶
主殿などの屋根には天水桶(てんすいおけ)と呼ばれる桶が設置されています。普段から雨水をためておき、火災の際にはその桶の水を撒いて屋根を湿らせるために使われました。
襖絵
主殿に入ると多くの立派な襖絵(ふすまえ)を見ることができます。大広間には斉藤等室(さいとうとうしつ)による襖絵「群鶴図(ぐんかくず)」、梅の間には狩野探斉(たんさい)による襖絵「梅月流水(ばいげつりゅうすい)」、秀次自刃の間として知られる柳の間には狩野探斉による襖絵「柳鷺図(りゅうろず)」などがあります(すべて撮影禁止)。
また、2020年には世界的に活躍する千住博(せんじゅひろし)画伯より襖絵「断崖図(だんがいず)」と「瀧図(たきず)」が奉納されました。こちらは写真撮影が許可されています。
断崖図です。
瀧図です。
蟠龍庭
蟠龍庭(ばんりゅうてい)は国内最大級の石庭です。弘法大師の御入定1150年の記念として、1984年に造園されました。雲海を表す白川砂は京都のものを使用し、雲海の中に四国の花崗岩を140個使い、雌雄の龍が表現されています。蟠龍とは地面にうずくまり、天にまだ昇っていない龍のことで、一対の龍が奥殿を守るように配置されています。
金剛峯寺の寺紋
通常寺紋(じもん)は1つですが、総本山金剛峯寺の寺紋は2つあります。左の紋が「五三の桐(ごさんのきり)」で青厳寺の寺紋だったものです。もともと総本山金剛峯寺は青厳寺と興山寺を合併してできたもので、青厳寺は豊臣秀吉により建立された寺紋です。右の紋が「三頭右巴(さんとうみぎどもえ)」で高野山の鎮守である丹生都比売神社(にうつひめじんじゃ)の神紋です。総本山金剛峯寺ではこの2つを寺紋としています。
寺紋は正門の提灯にもそれぞれ描かれています。
台所
順路を順に回っていくと最後の大きな台所に出ます。大勢の僧侶の食事を用意してきた台所もかなり大きく、二石釜(にこくがま)と呼ばれる釜が3つあり、全部で2,000人分のご飯を炊くことができます。大きなかまどは現在も使用されることがあるそうです。
中庭
中庭は四季折々の風景が楽しめるようになっており、春にはシャクナゲの花が咲き、秋には紅葉が色づきます。また別の季節に訪れてみたいです。
高野山 総本山金剛峯寺の住所およびアクセス方法
高野山 総本山金剛峯寺の住所
高野山 総本山金剛峯寺の住所は「和歌山県伊都郡高野町高野山132」です。
高野山 総本山金剛峯寺へのアクセス方法
新大阪駅から高野山 総本山金剛峯寺へのアクセス方法について解説します。
OsakaMetro 御堂筋線
15 分
徒歩
8 分
南海電鉄 高野線
80 分
南海電鉄 高野山ケーブルカー
5 分
南海りんかいバス
11 分
徒歩
すぐ
公式サイト
高野山 総本山金剛峯寺に関する公式サイト :
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最後まで読んで頂きましてありがとうございました。
( Written by Tatsuo Ikura )